私は、決心したら最後まで、振り返らずチャレンジする性格です。「できることがあるのに、やらない」なんてことは、私の人生のページにあってはならないのです。ようやく出会えた素敵な先生と一緒に、この病気を乗り越えて行きます!
現在、ADPKD患者として治療中のブルーベリーさん。
この病気と診断されてから多くの医療機関を経て、親身になって考えてくれる専門医と出会い、治療の一歩を踏み出されました。
現在、どんな思いを抱かれているのか、また、生活面やご家族のことについてもお話いただきました。
Q いつごろADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)であることを知りましたか?
私が、45歳ごろのことです。当時、近所の内科で高血圧症の治療を受けていた最中のことでした。だんだん、トイレが近くなり、背中に違和感を覚えるようになったため、他の病院の泌尿器科を受診して、超音波検査を受けた結果、ADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)であると診断されました。
Q その後、この病気の治療のために、多くの医療機関にご相談されたのですね?
ADPKD/多発性嚢胞腎と診断された泌尿器科で、精密検査のため、「腎臓内科の専門医に行ってください」といわれました。紹介先の腎臓内科での検査結果は、「クレアチニン値は0.9」だったため、ふたたび最初に高血圧治療を受けていた個人医院で治療をするようにいわれました。
この個人医院では、「5年から10年もすれば、いずれは透析になるだけだから」といわれるばかり。病気の進行を遅らせるために「塩分制限をしてください」といわれるくらいで、それより詳しいお話は聞けませんでした。
不安を抱える日々の中、ホームページで知った「多発性嚢胞腎外来」のある病院に涙ながらに懇願して通院し始めました。この病院では、すでにかかっている最初の個人医院と並行して治療することを勧められましたが、どうしても気乗りがせず、重複した検査の多さから時間的にも経済的にも大変で、足が遠のくようになりました。その間に、自己流で栄養制限などしてしまい、クレアチニン値が悪くなってしまったこともありました。
Q 医療機関を転々とされるかたわら、ご自身でも情報収集に動かれたそうですね?
多くの病院にかかる中で、この病気の情報がお医者様の間でもまちまちで、情報が少ないことを実感しました。
病院を転々とする中、不安は増すばかりで、救いを求めて様々な勉強会などに参加したり、著名な先生に直に電話をかけて、疑問点をお尋ねしたりしたこともありました。
そんな折、近隣の病院で開かれていた腎臓の勉強会に参加することになり、ADPKD/多発性嚢胞腎を研究されている腎臓内科の先生に巡りあうことができたのです。
この先生が真摯に向き合ってくださった結果、数値の改善が見られるようになりました。また、「水をこまめに取る」よう指導されたのですが、その理由として、「脱水になると、ADHホルモンが出てしまうから」と、背景についても先生は丁寧に教えてくださいました。その説明で初めて治療の意味を理解することができました。
病気になったことは本当に辛かったものの、この素敵な先生との出会いで、世界が変わったようでした。先生がADPKD/多発性嚢胞腎の専門外来を開かれ、新たな治療法が開発されたことを知らされ、さらに希望が持てるようになったのです。
Q 新たな治療を始めた現在は、どんなお気持ちですか?
腎嚢胞による痛みを解消したいという思いもありましたが、自分がこの新たな治療を受けることで、私の子供たちを含めた次世代に少しでも役に立てるのではないかという思いが何よりも強かったですね。
それに、私は「一度、こうだ!」と決めたら、振り返らずチャレンジする性格です。
やらないで、後悔することだけは、絶対にしたくない!
治らないといわれたところからのスタートでしたが、自分なりの選択肢を持てばいいし、どんな結果になろうと後悔しないという覚悟を持っています。
「できることがあるのに、やらない」なんてことは、私の人生のページにはあってはならないのです。
今は、希望を持って、一歩前進できたことに感激しています。
一方で、この治療を受けることができず腎不全に至った、多くの先輩患者の皆様や、数値的にこの治療に踏み出せない皆様への思いもあります。こうした方々の長い治療への取り組みとデータで、新たな治療法が生まれたといっても過言ではありません。
私は、心より深く感謝しています。
Q ご自身が体調を崩されたときもあったとお聞きしています。
成人した二人の子供たちには病気のことは正直に伝えていましたが、検査するかどうかは自分たちの意思に任せています。
考えてみたら、私も若いときから血圧が高いとは診断されていましたが、両親や親類にも、腎臓病の人はいなかったので、気にも留めていませんでした。
そう、私の小さかった頃といえば、身体が丈夫で特に病気もしませんでしたし、活発な少女時代を過ごしました。社会人になってからも、バドミントン部に入ったり、谷川岳、茶臼岳、富士山と、数々の登山を楽しんだり、スポーツの大会に出たり、、、と、本当に活動的な日々を過ごしていました。
その頃の楽しかった思い出が、今の私を支えてくれているのかもしれません。
娘も母となりましたし、息子もいずれ結婚することになるでしょう。
子供たちの周囲の方に、お伝えするかどうかを迷い続けている私に、遺伝カウンセラーの方々が「もし遺伝していたら、体質が似てしまったと思ったらいいのですよ」「今は自分の健康管理をすること。この病気は悪くならないようにできる
私は心配性なので、苦しくなると、心がつぶされ、どうにか脱出したくなる性格で、遺伝カウンセラーの方々にはこれまでどれだけ救われたかわかりません。
それと、以前から、好きでよく読んでいる心屋仁之助さんの本に、「雨の日も、晴れの日もある。いいことばかり手に入れようとするから、苦しくなる。だからどっちでもおいで、そうなったら考えよう。」※とあって、今とやかく考えるのはやめよう、という気持ちを後押ししてくれました。
Q 患者会に参加して感じられたことを教えてください。
食事については、病院の管理栄養士さんの指導を受けたり、ちょっとしたことなら患者支援団体のフリーダイヤルに電話して聞いたりしています。
私は心配性なので、食事を作る際は材料の分量を秤できっちり量ってやっていますね。
また最近では、以前よりもおいしい低たんぱく米が入手できるようになっているのですが、こうした食に関する情報を収集したり、おいしく食べる工夫をしたりと、できることは何でもしています。
唯一、お付き合いの席で、同じものが食べられないのは少し寂しい気もします。
外食でも楽しめるように、工夫したメニューや、栄養表示が広まるといいなと思いますね。
この病気により多少の制限はあるかもしれませんが、毎日を楽しむべきだと私自身は思っています。
Q ADPKD/多発性嚢胞腎と診断されて以降の生活についてお聞かせください。
お医者様、家族、お友達、とりわけ、一番理解してくれている主人の支えがなければ、とても乗り切ることはできなかったでしょう。この病気について、いつも自分のことのように理解しようとしてくれている主人は、仕事以外の時間は常に、私に気を配ってくれています。「脱水にならないように」と水をこまめに運んできてくれたり、食事も腎臓に負担のかからないものを、一緒に食べたりしてくれます。
落ち込んでいるときは、気持ちが楽になるような言葉をかけてくれています。
やはり、私が今、元気でいられるようにすることが、家族のためなのだと知りました。
時折、死にたくなるとき、涙するときがあるのも事実です。
でも、私を支えてくれた方々の顔を思い出すと、暗くしていては申し訳ないと思うのです。
娘から、孫のお守りを任され、自分が今頼られる存在なのだと思うと、嬉しくなったり、生き甲斐を感じることができています。
Q 病気と向き合う生活のなかでの支えは?
かつて親しんだ登山は、登り始めは苦しくて辛いことも多かったのですが、頂上に着いたときの達成感は最高で、そのときの高揚感は、今でも忘れられません。
この病気になった辛さ――「どうして私が」の憤りに始まって、「透析が一日でも延ばせれば」の頑張りに――さらには、「次の世代へ希望を受け継ぐ架け橋になれれば」という大きな目標まで抱けるようになったことを、そのときの思い出に重ね合わせている、といっては大げさでしょうか。
もちろん大好きな家族――主人や子供たち、孫たちと、実りある人生を、信頼と思いやりをもって過ごしていきたいと思います。
「ブルーベリー」の花言葉は、「知性」「信頼」「思いやり」、そして「実りある人生」。
彼女のこれまでの生き方をあらわす、素敵なニックネーム――
ご主人と一緒に行ったバラ園で手に入れたブルーベリーの鉢植え。
ご自宅のベランダに、この白い花が春を運んできてくれるということです。
※ 心屋仁之助『心が凹んだときに読む本』(三笠書房、2011年)より
2023年3月改訂
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