娘がADPKD/多発性嚢胞腎と診断されたことが、この病気と真剣に向き合うきっかけでしたね。この病気を周りにしっかりとお伝えすることで、医療関係者、娘の学校関係者の全面的な協力を得られたんです。治療を長年続けていて、「もうそろそろ、休ませて」と思うと、叱咤激励してくれはる人達がたくさんいて、なんとか頑張って来られたんです。
現在、ADPKD/多発性嚢胞腎患者として治療を続けるKMさん(50代女性)にお話を伺いました。ご本人が病気と向き合おうと決意されたのは、彼女のお嬢さんが幼くしてADPKD/多発性嚢胞腎と診断されたことがきっかけでした。お嬢さんは末期腎不全を経て、昨年、お父さんからの生体腎移植を受けました。ADPKD/多発性嚢胞腎と診断された同じような境遇の方々に少しでもお役に立てればと語るKMさん。ご家族とともに病気に向き合ってきた経験をお話しいただきました。
Q いつごろADPKD/多発性嚢胞腎であることを知りましたか?
今から15年以上前で、30代半ばの頃でした。
もともと私の母も腎臓の病気で亡くなっていたこと、また、周囲からも「腎臓病は遺伝する」といわれていたので、「私もそういう流れかなぁ」くらいに思っていました。
病名を知ったときも「そういう病気なんだなぁ」と漠然と感じたくらいでしたし、当時は、この病気の専門の先生もいなかったので、非常に簡単な説明しか受けていませんでした。
Q お嬢さんがADPKD/多発性嚢胞腎と診断されたときのことを教えてください。
2000年の冬、娘が7歳のとき、たまたま尿路感染症がきっかけで病院にかかり、ADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)と診断を受けました。娘まで同じ病気だったと分かった瞬間、「これはあかん」と思って、この病気の患者会に参加することにしたのです。
私自身は、好きなことをやってきたので、何も思い残すことはないわ、と思っていましたが、娘の発病は天と地がひっくり返るほどの衝撃だったんです。
そう、全てのきっかけは娘、娘の病気が無ければ、私も自分の母親と同じように「透析になるだけだ」と割り切ってしまったと思います。
私一人だけだったら、きっとここまで頑張って来られなかったでしょう。
Q お嬢さんが診断を受けたことが転機になったのですね。
私がしゃべったり、動くことだったりで、ちょっとでも娘の手助けになったり、病気の悪化が防げたりすればと必死でした。仕事も持っていましたが、あくまでも娘中心に都合をつけていましたね。「自分のせいで娘が病気を受け継いでしまった」と、その責任は感じ続けていましたから・・・。
娘がこの病気と分かってからは、私自身に考えるとか思い悩むとかの暇はなく、娘が病気のことで「悩まないように」「病気の悪化が妨げられるように」と、小中高の学校の先生方に、この病気に関する資料を紙袋に満タン持って行っては、正しく理解してもらえるまで説明を繰り返す日々でした。幸いなことにこうした説明や要望をきっちり受けてくれる学校ばかりで、病院の先生方、娘の学校関係者の方々から全面的な協力を得られるようになっていきました。いつも母子セットで、印象深かったんでしょうね(笑)。
自分自身が病気を詳しく知り、それを周囲に伝えることで、娘と私の治療環境は整ったんです。
Q お嬢さんは病気のことをどのように受け止められましたか?
娘は小さなときにこの病気について知らされ、その当時から私と先生が話す内容を当たり前のように聞いてきました。ですから、まるで空気を吸うように日常生活の一部として病気のことを捉えていて、「あなたはこういう病気ですよ」と告知する必要もありませんでした。病気の告知という大きな壁がなかったのは不幸中の幸いでした。
Q ご自身が体調を崩されたときもあったとお聞きしています。
そうなんです。脳動脈瘤が見つかり、それから半年後にはクモ膜下出血を起こして、脳神経外科にかかることになりました。
嚢胞感染も起こり、点滴治療を受けることになったのですが、娘のことに熱中しすぎていると、自分のことがおざなりになるんです。そうしたら突然、家の中で倒れてしまい、一ヶ月にわたりクモ膜下出血、脳梗塞、髄膜炎、さらには水頭症と幾度も生死の境をさまようことになりましたが、どうにか一命を取り留めたんです。
今も、ここ(頭部)にシャントが埋め込まれているのはそういうわけなんです。
Q 患者会に参加して感じられたことを教えてください。
同じ病気の方々との情報共有が本当に大きかったなぁと。
私以上に辛い状況にある方でさえ前向きに過ごされていて、お話させていただくと「上には上があるな」と励まされたものです。
私も娘も、他の患者さんを通じて良いことも悪いこともあらゆる情報を知ることで救われたと思います。
「なんだかよう分からん」というよりは、しっかり理解して、できることをやっていこうという気持ちになりましたので。
Q ADPKD/多発性嚢胞腎と診断されて以降の生活についてお聞かせください。
私はいい加減な人間なのですが、食事管理で手を抜くと主治医が許してくれません(笑)。
「お母様、管理栄養士の話を聞かなきゃダメです、○月○日○時からの栄養相談に来てください」と厳しく手綱を締めてくださいます。そのおかげで、厳しい娘の食事制限も管理することができました。
娘もそうですが、私も母の時代から減塩に慣らされていたので、制限された食事にストレスはありませんでした。今では低タンパクの食品も入手しやすくなっていますし、便利ですね。
娘の学校生活ですが、小学校3〜4年まではバスケットボールなどをしていましたが、嚢胞が大きくなると、衝撃を与えないよう、安静に過ごせるように配慮してもらったり、保健室で血圧を計った後、体育に参加させてもらったりと、気を配っていただけました。これも学校の先生方に病気のことをきちんと理解していただけたおかげですね。
Q 病気と向き合う生活のなかでの支えは?
娘の存在が「しっかりしなければ」という気持ちを高めてくれたことは間違いないですし、娘が病気を嘆かず前向きに生きてくれていることが、一番の支えです。
また、忙しい仕事の都合をつけて、病気の妻子を支え続けてくれた主人の存在がなければ、やってこられなかったでしょう。以前は「この人は病気の家庭で育っていないから(私たちの気持ちを)理解できないだろう」と思ったり、やり場の無い怒りを主人にぶつけてしまったりすることもあったんですが、娘の腎移植に際して腎臓を提供して手術室から出てきた主人の姿を見て、言葉にならないような感謝の念が沸きあがったんですよね。主人には心から感謝しています。
Q 新たな治療法が生まれたことをどう受け止めておられますか?
より多くのADPKD/多発性嚢胞腎の患者さんにとって、透析の開始が一日でも延ばせるようになってくれたら本当にいいなぁと思っています。
この子のためにも、これから診断された方々のためにも、医学の進歩に期待するところが大きいです。
Q 今後の目標をお聞かせください。
娘も移植を受けたので、「もうぼちぼち、楽をさせてもらおうかなぁ〜」とこぼしてしまうこともあるのですが、知人やドクターから「まだまだ、お母さんはへこたれちゃだめだ」と励まされます。
私自身がすごくポジティブというより、周りにおられる人たちが、常に叱咤激励してくれるのです。それこそ、頭をビチッとはる人もいれば、「あかんよ」とつねる方もいて、ちょっと力抜こうとすると「あかんよ、あかんよ」と背中を押される。
気が付けば、私も母の死んだ年齢を超えていました。
家族のためにも、ますます頑張らなきゃあかんなぁと。
今後も家族で、夏には家族旅行に出かけたり、楽しく仲良く暮らしながら、娘の将来も楽しみにしていきたいと思います。
2024年9月改訂
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