病気を受け入れたことで新しい夢も見えてきて、
未来へのチャレンジ精神が湧いてきました。
幼い頃にADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)であると診断されたAさん。大人になってからは海外を飛び回る仕事を続けてきましたが、病気との向き合い方を考え、現在は新たな道を模索して資格取得の勉強を続ける毎日です。第二のキャリアのための挑戦を始めた強さの秘訣はどこにあるのかお話を伺いました。
10歳でADPKD/多発性嚢胞腎と診断される
Aさん
私が小学校高学年の頃、母はすでにADPKD/多発性嚢胞腎と診断されており、私にも「検査を一度受けてみよう」と病院に連れて行ってくれたのです。そこでのう胞が認められ、私もADPKD/多発性嚢胞腎であると診断されました。当時は1980年代で、ADPKD/多発性嚢胞腎の認知度は今ほどではなかったのか、病院の先生に「非常に珍しい」といわれたことが印象に残っています。
望月先生
まだ小学校の高学年ぐらいの頃にADPKD/多発性嚢胞腎であるといわれて、どのように感じられましたか。
Aさん
正直、診断をされたところで痛みなどの症状も一切なかったので、「そうなのか」と思うぐらいでした。ただ、母は当時40代前半でしたが、すでに腎臓の肥大が進んでいたようでお腹も大きくなっている状態でした。そのため、自分のお腹も大きくなってしまうのかなとは感じていたと思います。
望月先生
Aさんは妹さんもいらっしゃいますが、Aさんの後に検査を行ったのでしょうか。
Aさん
妹は成人した後で検査しましたが、子どもの頃は検査を受けませんでした。当時はADPKD/多発性嚢胞腎に対する治療法はなく、診断されたところでなすすべがないということだったと記憶しています。ただ、母からは兄妹ともに「塩分を摂り過ぎないように」「血圧を上げないように」といわれてきました。母の手料理は減塩を心掛けたものでしたし、「味噌汁は半分残す」とか「ラーメンやうどんなどの汁は極力飲まないように」と注意されてきました。今もその習慣は身に付いています。
望月先生
ADPKD/多発性嚢胞腎は成人してから診断される方も多いですが、幼い頃から認識することで良い生活習慣が身に付きやすいのかも知れませんね。とはいえ、子どもから大人になるにつれて病気への向き合い方も変わってきたのではありませんか。
Aさん
相変わらず自覚症状はなかったのですが、母の病状が進行してきて、私が高校生になった頃には透析療法が始まっていました。辛そうにしている姿も見ていたので、自分も40代ぐらいで母と同じようになるのだという不安は常につきまとっていましたね。
受け入れたことで新しい目標が見えてきた
望月先生
Aさんは初めて診察させていただいた頃と比べても体重も増えておらず、食事のコントロールも順調にできているようですが、主治医としては中性脂肪が高くなってきたのが少し気掛かりです。
Aさん
望月先生には病気や治療のことに加えて、仕事の相談などもさせていただきました。私は海外出張や海外駐在の多い仕事をしてきましたが、現在は管理職の立場になり、以前のように出張などが多いポジションではなくなりました。しかしその分、自分の専門領域をもっと伸ばしたいと考えるようになり、今、国家資格を取得するための勉強もしています。もちろん、管理職になっても仕事はハードなため、帰宅はほぼ毎日22時前後で、その後で夕食になるため自分でもこれはよくないと思っているところです。
望月先生
働き盛りの年代ですから仕方がないのかもしれませんが、もう少し食事の内容や時間の工夫をすることが必要です。とはいえ、Aさんは治療に関しても積極的にご自身の考えや提案を話してくれました。食事の面でも工夫を始めているのではありませんか。
Aさん
もう少し若い頃は取り引き先との会食などが頻繁にあり、自宅で夕食をとることがほとんどないぐらいでした。そこで、食事の前には海藻やサラダなどの食物繊維を最初に食べるように工夫をしてきました。今でも朝食にはめかぶと納豆を混ぜたものを食べています。また、納豆にはタレを入れずに、めかぶの出汁で味を調えて減塩を図っています。
望月先生
それは素晴らしいですね。
Aさん
今は会食が減った分、オフィスでの勤務や勉強のために夕食の時間が遅くなってしまうことが気掛かりです。そこで最近は、夕方におにぎりを1個食べるようにして、その分、遅い夕食の時間には軽いおかずを中心に食事をしています。
望月先生
Aさんは以前から自己管理ができている患者さんだったので、頼もしいと感じていました。今は資格取得の勉強をされているとのことですが、今後はどのような目標を持っているのですか。
Aさん
私はもうすぐ50歳になりますが、サラリーマンとして定年まで今の会社で勤め上げる以外の道もあるのではと考えています。転職するか起業するかは分かりませんが、第二のキャリアに活きる資格を取っておきたいのです。以前は、もっといろいろな国で仕事がしたいという夢もありましたが、ADPKD/多発性嚢胞腎の治療を続けながらでは難しい点もあり、断念したことは確かです。しかし、それを受け入れたことで新しい夢も見えてきて、新しい仕事へのチャレンジ精神も湧いてきています。
望月先生
Aさんの強さは、理解して受け入れ、そこから新たな道を見つけだすところにあるように思えます。ADPKD/多発性嚢胞腎とはこれからも長い付き合いになりますが、一緒に頑張っていきましょう。
Aさん
望月先生は私の提案や相談に対しきちんと耳を傾けてくれます。当たり前のことのようですが、これが患者にとっては心強く、病気や治療だけでなく今後の人生への向き合い方にも大きな後押しとなります。先生、今後ともよろしくお願いします。
2023年7月作成
SS2306057
望月先生
Aさんが私の元を訪ねてこられたのは2012年の春でした。ご自身がADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)であることは認識していたものの、会社の健康診断を受けていた程度で、数値等は安定していたため通院はしていなかったそうです。そもそもADPKD/多発性嚢胞腎を知ったきっかけは、お母様が同じ病気であったことだと伺っています。