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中村 龍史

弟1回中村龍史さん

僕は自分の仕事って「修業」だと思っているんです。壁にぶち当たって、その壁を見上げながら「そんなに僕を成長させたいんだね」というふうに思うようにしている。だから、病気が僕を成長させてくれたようなものだと思っています。

僕は自分の仕事って「修業」だと思っているんです。壁にぶち当たって、その壁を見上げながら「そんなに僕を成長させたいんだね」というふうに思うようにしている。だから、病気が僕を成長させてくれたようなものだと思っています。

コンサートやミュージカルの演出・振り付け・劇作家として、30年以上も第一線で活躍してきた中村龍史さん(62歳)。25歳のときに多発性のう胞腎(ADPKD)と診断され、46歳以来、透析をつづけながら、周囲には、この疾患を知られることもなく、アクティブな毎日を送ってこられました。「私のADPKD体験談」第1回は、中村さんに、ADPKDと診断を受け、どのように対峙されてきたのか、これまでの体験をお話いただきました。

コンサートやミュージカルの演出・振り付け・劇作家として、30年以上も第一線で活躍してきた中村龍史さん(62歳)。25歳のときに多発性のう胞腎(ADPKD)と診断され、46歳以来、透析をつづけながら、周囲には、この疾患を知られることもなく、アクティブな毎日を送ってこられました。「私のADPKD体験談」第1回は、中村さんに、ADPKDと診断を受け、どのように対峙されてきたのか、これまでの体験をお話いただきました。

Q どのような経緯で多発性のう胞腎であることを知りましたか? Q どのような経緯で多発性のう胞腎であることを知りましたか?

僕の父親が透析を始めたのが、僕が25歳ぐらいのとき。そのときウチの奥さんが「あなたも調べたほうがいい」というので、調べたら多発性のう胞腎(ADPKD)だということがわかった。
で、父親は僕が29歳のときに亡くなったんですが、そのとき多発性のう胞腎という病気が遺伝性であるということを初めて知りました。そこで、ウチの親族も「検査しなさい」と勧められて行ったら、何人かがやはり多発性のう胞腎だったんです。

Q 病気のことを知ったときに、どのように思いましたか? Q 病気のことを知ったときに、どのように思いましたか

当時はまだ若かったのと、自覚症状があまりなかったので……。多発性のう胞腎という病気を持っているということはショックではあったし、そのまま放っておいたわけではないけれども、医師から「一年に一度くらいは検査に来なさい」と。で、年に一度くらい検査を受けに行っていました。
人間というのは、自覚症状がないと、やはり本気で病気と向き合うということがなかなかできないと思う。僕自身も、ものすごく仕事をしていましたね、30代は……。

食事はどのようなことに気をつかっていましたか? 食事はどのようなことに気をつかっていましたか?

基本は、薄味なんです。ただし、外食するときとかは、たまにはラーメンも食べたいわけですね。でも、ラーメンは食べてもスープはいっさい飲まない。そういうことには気をつかっていました。
ただ、食べ物に関して、あまりストイックになってしまうと、逆にストレスが溜まってしまう。なので「たまには外で好きなものを食べようよ」と、いつも奥さんと二人で話していました。

Q ご家族の協力については? Q ご家族の協力については?

外で好きなものを食べるかわりに、家で食べるときはウチの奥さんがちゃんといろいろな食事療法をやってくれる。だから、ある意味で僕は安心して食べていたから、家族の協力に、ものすごく感謝していますね。

中村 龍史

Q 新しい治療法が生まれていることをどう思いますか? Q 新しい治療法が生まれていることをどう思いますか?

新しい薬や治療法はほんとうに進化しているので、「僕が30代のときにそんな薬(治療法)があればよかった」とは思うけれど、それは今いっても仕方のないこと。
ただ、透析の導入が遅れれば遅れたほうがいちばんいいことだし、透析の針を刺されるのは痛いわけだからね。(笑)
だから、新しい薬(治療法)ができたことは、とても素晴らしいことだと思っています。

Q 今後の目標をお聞かせください。 Q 今後の目標をお聞かせください。

僕はミュージカルが好きで、なんとか日本でオリジナルミュージカルを目指したい、定着させたいと思っているんです。
ここ(赤坂CHANCEシアター)では、「CHANCE(チャンス)」という本格派の、歌って踊れて、でもキチッとバカもできるという女の子たちを育てています。
この子たちがもっと大きくなって、その舞台を持って全国を回りたいというのが、ちょっと先、一年~二年後の小さな夢です。
アジア人って美しい人が多いんです。できれば、アジアのどこかに「ブロードウェイ」をつくりたいですね。

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「楽しんで病気とつきあえ」とはいわないけれども、そのぐらいの軽い気持ちでつきあったほうが、人生は楽しいと思う。逆に病気に助けられていることも、いっぱいある。一日一日を大事に暮らしていくというのが、僕はいちばん大事なことだと思います。

ADPKDと診断された患者さんへのメッセージ

「楽しんで病気とつきあえ」とはいわないけれども、そのぐらいの軽い気持ちでつきあったほうが、人生は楽しいと思う。逆に病気に助けられていることも、いっぱいある。一日一日を大事に暮らしていくというのが、僕はいちばん大事なことだと思います。

中村 龍史

中村 龍史 演出家・振付家・作家 中村 龍史
演出家・振付家・作家

1951年、東京上野生まれ。「劇団四季」の4期生を経て役者修行。1981年、コンサートの構成・演出・振付を一人で手がける演出家としてデビュー。コンサートに演劇的な要素を取りいれ、卓越したアイデアとストーリー性のある振付で、松任谷由実、小林幸子をはじめ、歌って踊るアイドル集団の先駆け「東京パフォーマンスドール」など、じつに幅広いジャンルを手がけ、各方面で高い評価を獲得。以来、ミュージカル・演劇から国体の開会式まで、250本以上のさまざまな舞台を創り出している。2001年から2007年夏まで、マッスルミュージカルに取り組み、日本初のオリジナルミュージカルとして2度にわたりラスヴェガス公演を成功させた。中村JAPANドラマティックカンパニーを主宰。
25歳のときに多発性のう胞腎(ADPKD)と診断され、46歳で腹膜透析を開始。2010年、59歳のときに血液透析に移行し、現在は在宅透析をつづけている。2012年、その体験を書いた本『満身ソウイ(創痍・創意)工夫』を出版した。

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